法助動詞
文は、事柄的内容を表す部分と、その事柄的内容に対する発話者の心的態度を表す部分とから成り立っています。
(1)a 留学するだろう。
b 留学するほうがいい。
c 留学しよう。
d 留学するよ。
(1)では、「留学する」が文の事柄的内容を表し、「だろう」「ほうがいい」「う」「よ」が、事柄的内容に対する発話者の判断や、聞き手への伝達といった、文の述べかたを表しています。このような、文の述べかたに関する言語上の表示をモダリティ(modality)といいます。モダリティのうち、事柄的内容に対する発話者の判断を表すことを主たる機能とする助動詞を法助動詞といいます。古代語における法助動詞には、次のようなものがあります。
(2)む・じ・らむ・けむ・まし・らし・めり・なり・べし・まじ
法助動詞は相互に承接しませんが、「べし」と「まじ」だけは例外です。
(3)いかがすべからむと思ひ乱れ給へり。(源・早蕨)
(4)いとど忍びがたく思すべかめり。(源・匂兵部卿)
(5)寅の時になむ渡らせ給ふべかなる。(枕259)
(6)人のたはやすく通ふまじからむ所に(堤・よしなしごと)
「べし」と「まじ」は、
(7)この、人の御車入るべくは、引き入れて御門鎖してよ。(源・東屋)
(8)さだに[心配が]あるまじくは(源・宿木)
のように仮定節内に生起することができる点でも、発話者の主体的態度を表すモダリティからは遠いということができます。
「べし」と「まじ」を除く法助動詞も、テンスを下接し得るか否かによって二分されます。即ち、「む・じ・らむ・けむ・まし」はテンスを下接できず、発話者の発話時における判断しか示せないのに対し、「めり・なり」は、
(9)それより後は、局の簾うちかづきなどし給ふめりき。(枕46)
(10)物の怪もさこそ言ふなりしかと思ひあはするに(源・手習)
のようにテンスを下接させ、過去にそういう判断が成り立ったということを示すことができます(「べし」「まじ」もテンスを下接できます)。以上から、古代語の法助動詞は、次のように分類されることになります。
| A | べし・まじ | (法助動詞下接〇・テンス下接〇) |
| B | めり・なり | (法助動詞下接×・テンス下接〇) |
| C | む・じ・らむ・けむ・まし・らし | (法助動詞下接×・テンス下接×) |
C類の語は、理由節内に生起できません(高山善行1987)。即ち、「*~めば」「*~らめば」などの言い方はありません(B類では「*~めれば」「*~なれば」が可能です)。 B類の「めり・なり」は疑問文に現れず、一人称を主語とすることがありません。「らし」はC類に分類されますが、根拠のある推定を表す点、一人称主語をたらない点、ほとんど疑問文に現れることがない点では、B類に似ています。
法助動詞の中で、「まじ」と「じ」は否定の意を含んだ語です。一般に、「まじ」は「べし」の否定、「じ」は「む」の否定と考えられます。従って、対で用いるときは、次のように現ます。
(11)夢をも仏をも用ゐるべしや、用ゐるまじやと定めよとなり。(蜻蛉)
(12)来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさず(万3861)
「人聞きもうたて思すまじかべきわざを」(源・夕霧)は、不思議な例で、河内本「人き〻もうたておほすましきわさを」を採るべきでしょう。
法助動詞の「む」「じ」「べし」「まじ」には、推量などの、事態に対する発話者の認識に関わる意味(認識的意味)と、意志や勧誘などの、行為の実行に関わる意味(行為の意味)とがあります。
証拠性
法助動詞の中には、何らかの証拠に基づいた認識を表すものがあります。これを証拠性(evidentiality)といい、証拠性をもって成立した認識を推定といいます。古代語で推定を表す法助動詞は「べし・まじ・らし・なり・めり」で、いずれも終止形接続です。
終止形接続の助動詞は、ラ変の語には連体形に接続します。ただし、「なり」には、上代に、「葦原の中つ国は、いたくさやぎてありなり[阿理那理]」(記)のような接続例があります。
様相的推定・論理的推定
外観から性質や兆候を推定する様相的推定(現代語の「そうだ」)、および論理的推論によって推定する論理的推定(現代語の「はずだ」)は、古代語では「べし」で示されます(中西宇一1969)。
(1)我がやどに盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも(万851)
(2)藤波の咲き行く見ればほととぎす鳴くべき時に近づきにけり(万4042)
(1)は梅の花に「散る」という兆候がみえるという様相的推定(「散りそうだ」)、(2)は「藤波の咲きゆく」ことから「ほととぎす鳴く」という事態が推論されるという論理的推定(「鳴くはずだ」)を表しています。
(3)青柳は蘰にすべく(=デキソウニ)なりにけらずや(万817)
(4)逢ふべかる(=デキルハズノ)夕だに君が来まさざるらむ(万2039)
(3)(4)では、この様相的推定と論理的推定とが可能の意を含んでいます。
(5)文をとりて見れば、いと香ばしき紙に、切れたる髮をすこしかいわがねて(=輪ニシテ)包みたり。いとあやしうおぼえて、書いたることを見れば、「あまの川空なるものと聞きしかどわが目のまへの涙なりけり」と書きたり。尼になりたるなるべしと見るに(大和103)
(6)[かぐや姫ハ]月のほどになりぬれば、なほ時々はうち嘆きなどす。これを、使ふ者ども、「なほ物思すことあるべし」とささやけど(竹取)
(5)は、論理的推定の延長上にあって「に違いない」と訳される例、(6)は、様相的推定の延長上にあって「ようだ」と訳される例です。「べし」はまた、当為表現も担います。
「べし」の否定には、「べくもあらず」と「まじ」とがあります。
「べからず」は漢文訓読で用いられたもので、和文では用いられません(『源氏物語』では「べくもあらず」八五例に対して、「べからず」は僧都の詞として一例みえるだけです。なお「べくはあらず」が二例あります)。「まじ」に相当する形式として「ざるべし」もあり得るはずですが、用例は多くありません(『源氏物語』では「まじ」五七三例に対して、「さるべし」は九例です)。
- 風のつてにも[源氏ガ朧月夜ニ]ほのめき聞こえ給ふこと絶えざるべし。(源・少女)
「べくもあらず」が打消された事態の成立を強く主張する表現を作るのに対し、「まじ」は打消された事態に対する様相的・論理的推定を表します。
(7)立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。(伊勢)
(8)顔むげに知るまじき童一人ばかりぞ率ておはしける。(源・夕顔)
(9)ことにもののあはれ深かるまじき若き人々、みな泣くめり。(枕128)
(7)が「全く似ていない」という否定事態を強く主張したものであるのに対し、(8)は打消された事態に対する論理的推定(「顔を知っていないはずの」)、(9)は打消された事態に対する様相的推定(「深く感じなさそうな若き人々」)を表しています。即ち、「べくもあらず」は現代語の(10a)に相当し、「まじ」は(10b)に相当するといえます。
(10)a 失敗するはずがない。(=決して失敗しない)
b 失敗しないはずだ。(「失敗しない」ことが論理的に推定される)
次例の「まじ」は可能の意を含んだ様相的推定の否定です。
- たはやすく人寄り来まじき家を作りて(竹取)
様相的推定の「まじ」に「いかにも~の様子である」の意の接尾辞「-げなり」を付けた「まじげなり」も用いられました。
- 木の葉の残りあるまじげに吹きたる、常よりもものあはれにおぼゆ。(和泉日記)
「まじ」は上代には「ましじ」という語形でした。「ましじ」は「まじ」の古い語形といわれ、終止形と連体形の例しかありません。
- 堀江越え遠き里まで送り来る君が心は忘らゆましじ[麻之自](万4482)
- 末桑の木寄るましじき[麻志士枳]河の(紀歌謡56)
「まじ」は「ましじ」の後に成立した新しい語であるせいか、和歌にはほとんど用いられません(三代集には用例がありません)。
中古の一時期「べらなり」という推量の助動詞が用いられました。これは、形容詞「清し」から形容動詞「清らなり」が派生したように、「べし」から派生した語形と考えられます。三代集中に例がみえ(四六例)、特に紀貫之が好んで用いました。
- 鳴きとむる花になければ鶯もはてはもの憂くなりぬべらなり(古今128)
- 北へ行く雁ぞ鳴くなるつれてこし数は足らでぞ帰るべらなる(古今412)
- 春のきる霞の衣ぬきを薄み山風にこそ乱るべらなれ(古今23)
- 知らぬ茸と思すべらに、独り迷ひ給ふなりけり。(今昔28-19)
同じく「べし」から派生した語形に「べかし」がありますが、これはラ変動詞「あり」に付いて「あるべかし」の形でしか使用例がありません。
- おほかたのあるべかしき(=当然アルハズノ)ことどもは(源・総角)
証拠に基づく推定
「らし」は、その認識が、外部に存在する情報を根拠にして成立したことを表す語です。下例では、波線部に推定の根拠が示されています。
(1)沖辺より潮満ち来らし可良の浦にあさりする鶴鳴きて騷きぬ(万3642)
(2)春日野に煙立つ見ゆ娘子らし春野のうはぎ摘みて煮らしも(万1879)
松尾捨治郎(1961)によれば、『万葉集』で「らし」が用いられた歌一七五首中、一五〇首(八六パーセント)までが、(1)(2)のように、推定の根拠を示した二文構成になっています。「らし」は、
(3)常やまず通ひし君が使ひ来ず今は逢はじとたゆたひぬらし(万542)
のように、「ぬ」は承けますが、「つ」や「き」は承けません。「昨日雪が降ったらしい」のように、眼前の事態を根拠にして過去の事態を推定する意を表すには、「けらし」を用います。この「けらし」は、「けるらし」が約まったものといわれます。
(4)年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄るみゆ(万1163)
「けらし」を「けり」の形容詞形とする説もありますが、「けらし」に形容詞としての活用形態はなく(「らし」同様無活用です)、1のような「寒からし」は「寒かる+らし」の約と考えられることから、「けるらし」の約と考えてよいものと思われます。2、3は同様に「あるらし」「なるらし」の約です。
- 秋の夜は露こそことに寒からし草むらごとに虫のわぶれば(古今199)
- 武庫の海の庭良くあらし漁りする海人の釣船波の上ゆ見ゆ(万3609)
- かく行けば人に憎まえ老よし男はかくのみならし(万804)
(5)(6)では、「らし」は既定事実(眼前の事実)に承接し、その理由を推定しています。この用法は、中古にはありません。
(5)我が背子がかさしの萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし(万2225)
(6)汝たちのよからぬに依りてし、かくあるらし。(続紀宣命17)
(7)(8)のように、推定の根拠が言語上表現されない場合があります((7)(8)の根拠は眼前の状況です)。(9)のような「らし」は、ふつう、確信をもった推定と説明されます。
(7)み雪降る冬は今日のみ鶯の鳴かむ春へは明日にしあるらし(万4488)
(8)[松原ニ鶴ガ遊ブノハ]波かけの見やりに立てる小松原心を寄することぞあるらし(蜻蛉)<松原ニ鶴ガ遊ブ屛風歌ニ寄セタ歌>
(9)色まさるまがきの菊もをりをりに袖うちかけし(=袖ヲ連ネテ青海波ヲ舞ッタ)秋を恋ふらし(源・藤裏葉)
「らし」は『万葉集』では一七五例用いられていますが、『古今和歌集』では一九例、『源氏物語』では三例(すべて(9)のように和歌中の例です)、『枕草子』では〇例です。「らし」は平安時代、和歌では「らむ」に、散文では新進の「めり」に圧倒され、急激に衰退しました(松尾捨治郎1961)。したがって、古代語の助動詞「らし」は、現代語の助動詞「らしい」に繫がりません。
「らし」は無活用です。(10)(11)は係助詞に対する結びとして、連体形、已然形に相当します。
(10)この川にみぢ葉流る奥山の雪げの水ぞ今まさるらし(古今320)
(11)ぬき乱る人こそあるらし白玉のまなくも散るか袖のせばきに(古今923)
次例1は「らし」が形容詞型活用に転ずる萌芽を示していますが(上代では、形容詞型活用の語は、「こそ」の結びに連体形が用いられました)、結局活用形式を獲得する至りませんでした。
- 古も然にあれこそうつせみも妻を争ふらしき[良思吉](万13)
「けらし」にも、一例だけですが「偲ひけらしき[偲家良思吉]」(万1065)の形がみえます。「らし」はほとんど文の終止にしか用いられませんが、2は連体修飾用法です。
- 大君の継ぎて見すらし高円の野辺見るごとに音のみし泣かゆ(万4510)
聴覚に基づく推定
終止形接続の「なり」は、聴覚によって事態を推定する意を表します(松尾捨治郎)。ラ変型活用です。
(1)我のみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺の方に梶の音すなり(万3624)
(2)吉野なる夏実の川の川淀に鴨そ鳴くなる山陰にして(万375)
(3)皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝ねかてぬかも(万607)
上代の「なり」は(1)~(3)のように、音響を表す動詞を直接受ける例がほとんどです。
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